喪中のまとめ その3 「奇跡を望むなら」

親はいずれ死ぬ,そして自分も・・・

30年も医者をしていれば,毎日毎日
直面する事実である.

最近の特徴は,「年齢はもう十二分,覚悟はできている」
と言うこと.
自分の個人的印象としては,最近は
「70才台で死ぬと,まだ若い」扱いされている.
80才台でもまだ若い.
85才を超えると男性では,「まあ十分」
女性では「90才を超えると,まあ十分」と思い出す印象.

もちろん,家族それぞれなので一般的なお話.

自分も父親が体力が落ちてきているのはわかっていた.
記録を読むと2年前の1月に,父親を遠くの伊勢エビを食べに
連れて行っている.それが最後の遠出であった.

まあ,自分ができることを出来るときにしておこうと
思って,「父親の最後の遠出」を実現させて2年でなくなった.
伊勢エビを食べた後,自宅に戻って,戻った途端に,
「食べに行ったこと」自体を忘れてしまっていた父親.

それで良い.

自分も5才の時に,父親にそこに連れて行ってもらったらしい.
自分は全く覚えていない.
それでも,人生の中で,人格を作ったり,
考え方の基準になったり,いわゆる「血となり肉となり」
したものであろう.

父親がいずれ死ぬことは普通に考えたらわかること.
それにあわせて,「生きている間にできることを自分はした」

患者さんの家族に,よく質問されることがある.
「奇跡は起きませんか?」と.

高齢者で,重症で意識も無く呼吸もない状態で
「奇跡がおきる」ということは,病気の前に戻るということで,
時間を逆回しして,「若返る」ことを意味する.

それは,奇跡ではなく,無茶な注文である.
個体は生まれたら成長して,いずれ死ぬように出来ている.
そもそも,なぜ,そのような状態になって,
健康な若い時代に「高齢者に戻ってほしいのか?」

それは,大きな理由が2個ある.
1)先伸ばしていた「親孝行」が結局,もう2度と機会が来ないことを
  認めたくない.悔しい.残念.先延ばしした自分が情けない.
  という気持ちが渦巻いているからである.
  
  「ここまで重症になってから,良くなることを望まれても
  それは,無理です.100才に近い人が重症になって,
  そこから治って,元気になって自宅に歩いて帰る」
  などは,無理である.

   他人の話なら「そりゃ,そのとおり」
   と思っても,

   「いつまでも生きてほしい.
   自分が最後の親孝行をしていない」と
   と思うと,そのような反応になる.

2)「いつまでも元気でいてほしい」という無茶な願い.
  だれでも思う真実.
  交通事故,特に飛行機事故など,自分が遭遇するとは
  思っていない.ましてや,突然の病気で命を落とすなど.
  それの延長は,「両親にはいつまでも元気なはず」
  と,無意識に信じている.盲信とも言って良いか.
  要は,「人は死ぬもの」という一般論と
  「自分,自分の両親」という各論の結果が一致していない.
   要は,覚悟が出来ていない,あるいはするつもりが無い.
  のが,結論.
 

  それではダメで,「人は死ぬ.親も死ぬ.次は自分」
  と覚悟をしたら,
  「後で,出来なかった」と後悔しないためにも,
  とにかく,時間を作って「なにかする」こと.
  それで,1)は解決する.そして2)も自然に納得する.

  時間管理術の中では,「一般論」「総論」
  と「各論」「自分の場合」をくっつけて,実行するのが
  基本.

  葬式の次の日に,
  2年前の1月4日に「伊勢エビを食べに行った」記録があった.
  自分は,すべきことをしていたと,その時思い出した.
  やるべきことは,自分はしていたと思いだした.

  悲しい気持ちとは別に「悔しい」気持ちはなかった.

  「奇跡を望むなら,違う形で」が正しい形.
  「実行することが,すべて」と言う感じ.
  

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