三本の矢の話の違和感

毛利元就の息子たちへの教訓である、
三本の矢を束ねて折らせるとなかなか折れなかったと言う話.

どこかおかしいと子供のころから感じていた. 
どこが?

そもそも,弓矢の「矢」は防御する武器ではない.
相手を倒すための攻める武器である.

「束ねたら,折れにくい」は,矢としての機能を高めているわけではない.
防御の話をするのには,適していない.

他のたとえでは「一の矢でダメなら,二の矢,三の矢と放て」
と言うものがある.その方が,正しい使い方で
一本では相手を倒せなくても,二本,三本と放てば
強力な敵でも倒せる.
その方が,現実的である.

自分が,それを最近感じるのは,
世の中には優れた人たちがたくさんいる.
ある職業についた人には,無意識にその職業的な考えがあっているからと思う.
体力や注意力の使い方などもあっているからであろう.
向いていないと思えばやめる.
スポーツでも好き嫌いが皆ある.得意不得意がある.
あるスポーツのなかでも,.得意技がある.
趣味でするのなら,どうでも良いが,その世界で多くの他の人たちと
戦っていくには,得意技が一つだけでは無理であろう.
仕事としてなら,自分の得意技は3つぐらいはあった方が良い.
芸能人で一発芸の人たちもそれなりに存在感はある.

しかし,一般の仕事で,自分はこれ一つしか出来ませんと言うのでは
たいてい,先細りである.
だからこそ,多くの人が資格を増やし,会社も収益源をいくつか増やす.

要は,優秀な人たちと対等に戦おうとすれば
最低3本の矢を持ったほうが良いと言う形のたとえが一番しっくりする.

この場合は「矢」は「得意分野,あるいはサブスペシャリティー」の隠喩である.

少なくとも,まずはある分野では惨敗はしない,他の分野では劣ることはない.
もう一つは,他の人にはない技能がある.等になれば,
初めて,「三本の矢をもてるようになれば,相手に完敗するような事はなく,
勝てる可能性もある.その為には,確実に一本ずつがあたるように努力を
おこたるな」
と言うのが,本当の遺言らしいと思う.

そもそも,三本束ねたら相手におられないように強い矢を作ることなど
発明したクロマニヨン人の時代からなかったはず.
遠くの動物を倒すために開発したもの.
突き刺す能力,抜けないような形等,
何万年前から全く同じ形である.
それなら,1本よりは,3本持っていた方が良いに決まっている.

人生で負けたくなければ一本だけでなく3本の矢を持っているといえるまで努力を続けろ

と言うのが自分の感じていた「本来の三本の矢」のお話である.

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