面接の段取り  2007年の記事,地獄への面接

自分の行き先も、
決まらない脳外科医はどうするか?


その時2005年3月に開院する
大きな病院があることは、
自分の
出生地でもあるので、
知っていた。


県立病院と市民病院の合併、

日本で最初にPFIを取り入れる病院。
  

しかし、すでにそこでは
3名の脳外科医が決まっていて、

自分は
脳外科医としては、
雇われないこともわかっていた。

しかも、医師の定数を県議会が決めているという
旧態然とした
体制。

今なら、
定数を決めても,医師数が足らないのが
当たり前だが、

まだ2003年当時は、
いまのような医師の流動化にともなう
地方の
医療崩壊など
考える力は持っていなかった時代。

しかも合併計画は、
その10年も前から決められた政策である。

自分が働きだして
医師の各科の定数は撤廃された。

当たり前で医局は崩壊、
医師は個人的にどこにでも行ってしまう。

そんなときに何科であっても
一人でも多いほうがよいに決まっている。

  
雇っておいて「兼任」でほかの科の外来でも、
当直でも
なんでもさせればよい話である。

  
自分の場合、2003年7月10日だと覚えている。
その時働いていた病院の病院長が
その県の病院協会の会長、

新病院の院長予定者がそ
の県の病院協会の会長.

  
そこで、電話をしてもらって、
2週間後3時半からなら
会えるから
面接をとなった。

  

そのときは、履歴書、医師の場合は
学会発表、論文が実績になるが

その一年は、自分にとっても当たり年で、

年に11回も発表して優秀演題に2回、
論文の依頼が1回と絶好調の年であったので、

それらを書いて、約束の時間に行った。
部屋にはいって挨拶して、
ソファの一番遠いところに座って

雑談を30分
「雑談しているみたいだけれど、君いいよ」

で、決まり。拍子抜け。

時間があまったので、
そのまま歩いて帰っているとその日は

マトリックスリローディドの
初日であったので、映画を見た。

気分も高揚していたので非常に印象深い映画となった。

特に、覚醒したネオが弾丸をよける
シーンは印象に残った。

  

  続く。

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