論文が書けない人の本当の理由 

(2012年の記事です)
優秀だが
 なぜか論文が書けない人が
 昔からいた.

1)博士号の論文が書けない.

2-3年地道に研究してきたのに書けない.
学会発表もしているのにかけない.
自分は新しいことをそれなりにやったので,
何とか書けたが,
多くの上司,先輩に助けていただいた.
自分一人では,まず書けなかった.
  
その時,同級生で脳外科で研究していたのは,
12名になると思うが,
5名が書いて7名が書いていない.
  
臨床能力とは全く関係がない.

ある評判の悪い上司のもとに,同級生の誰かが行くことになって,
「君は,まだ博士号の論文がまだだから仕方ない.
同じ研究グループから,誰か行ってもらおう」と言われた.

その同級生は「書かないほうが良い場合がある」と言っていた.
  
その時は,そうであったかもしれない.
しかし,出張する病院にずっといるわけではない.

長い目でみれば,その彼にとって
結局はマイナスになった気もする.

今は,研究中心の動物を使った論文など,
「臨床医不足」なので,
時間とお金の無駄なように考えられる傾向がある.

米国では,以前から臨床医こそがドクターで,
研究は,医師がするものではないという風潮があった.

日本は,大昔は「医学博士を持った医師が立派」である
という時代が確かにあった.
昭和の終わりまではあった.

特に国公立の部長になるには,
博士号がないとなれないと言う時代も
あったと聞いている.
1980年代ぐらいまでであろう.

2)発表は,ものすごくするが論文が少ない医師.

これも,ものすごく多い.
ある本を読んでいて,
論文が書けない人の深層心理として,
「人から批判を受けるのが,イヤ」である人
と書いてあった.

これが,原因の一つであろう.
発表は,イイッパナシであり,その場限りである.
しかし,一旦,紙媒体になれば後世まで残る.

以前,聞いたが,
間違った結論の研究論文を一つ書けば,
その後,10個正しい論文を書いて,
ようやく帳消しになるかも.
というものであった.

これは,医学論文の場合であり,
経済予測のような,
「外れても,誰も驚かない」
アナリストレポートなどとは異なる.

3)締め切りのない仕事はしない医師

これは,普通に見る.

論文など,依頼原稿ならいざ知らず,
たいていは書かなくても
全く変化は起きない.

自分も多くの書きかけで終わった論文がある.
書きあがった論文の2倍はある.
これは,性格の問題.
  
4)論文は,書いた以上,一生責任を負う.
  

これは子供ができた以上,
親としての責任が一生ついて回る
というのに近い.
結婚でも同じこと.
法的な責任が生じる.
これは「付き合っていたけど,別れた」のが
学会発表レベルの責任とすれば,

「結婚していたけど離婚した」というのが
論文レベルの責任になる.

要は,法的,書面的に立場が変わるという
レベルの責任が生じるぐらいの差になるということ.
 
だからこそ,
自由がほしいけど責任は取りたくない今の人は,
結婚もしないし子供も作らない.

結婚には,表面上は締め切りはない.
しかし,ある程度年取ると,できる確率は減る.

論文も締め切りはない.しかし数年もたつと,
その時トップの内容でも陳腐な
当たり前のことになっている.

おそらく,結婚と論文書きはある意味
共通項が多い.
論文では,倫理的な責任が生じる.
  

結 論

 

自分が研究室時代は,
博士号の論文は,
研究期間終了までに書かなくても,
それほど責められたりしなかった.
 
書いてない人は,
「協調性の高い,どちらかといえば
結論づけたりしないタイプの人」
 が多かった.
当然,人から批判を浴びるようなことは好まない.

論文は「書いた者の,責任が発生する」
 
 そして,見た目の締切がない.
3年もたてば,書いても採用されないぐらい古くなるので,
実際は見えない締め切りは存在している.

書かない人は,じっと台風が過ぎるのを待っているのであろう.

書かない人には,書かない人のメンタリティがある.
自分は,それらを理解したうえで,少しずつ書いてきた.
  
  平々凡々な実績.

※2016年7月雑感追加
「最近は,医学的な使命があると思う症例などは,
何とかして世に出したい」とは思うようになった.
医師としての最後の奉公と位置づけている感じ.

  
  
  

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